会話は苦手だ。元来内向的な性格である。お前は内向的な人間だとはっきり言われたこともある。批判的な文脈での一言だったので、今も苦い記憶として残っている。よく喋るので会話が得意だと勘違いされることもあるが、言いたいことを言いたいだけ喋ってしまう、所謂ヲタク的な喋り方であるというだけで、それ故に後悔することも多い。だからこそ、今年の目標の一つとして傾聴の習得を挙げた。

そんな折、何処かでお勧めされていたのを見て、『会って、話すこと。』(田中泰延著)を読んだ。表紙には「会話術」とあるが、中身を見ると、傾聴、相槌、質問の仕方といったよく聞く「会話術」のテクニックには否定的だ。もっとも、「あさっての方向に話す」「ツッコミはマウンティング」といった具体的な助言は有る。ただ、本書にある通りボケ倒すには教養も必要で難易度が高く、私が形だけ真似をしても火傷をするだけだろう。

寧ろ心に留まったのは、人間は相手の話なぞ聞きたくない、という絶望的な事実と向き合おうという諭しだ。幸いなことに、この絶望は若干居心地が悪いものの、我慢すれば仲良くできそうなぐらいには小さいし、捉えようによっては救いでもある。もし相手が自分の話に興味を持たないのなら、上手く伝えられなかったと後から悔やむこともない。相手の話を自分が覚えられなかったとしても、元来そういうものなら自分の責任も少しは軽くなる気がする。

「人は他人の話に興味を持つはずだ」という希望が打ち砕かれる故の絶望を越えながら、二人の間に何かを創る、それこそが会話の意義だという。そのためには二人が同じものを見る必要がある。会話はあくまでもその手段の一つに過ぎない。時には邪魔ですらあるかもしれない。

黙って同じものを見て、意識を共有すること。これはオンラインでは難しい。オンライン会議で黙ったままでいるのは奇妙な体験だし、ましてオンラインチャットなら無視しているのと区別が付かない。思い返せば、記憶に残る会話には、いつも沈黙が付いてきたような気がする。それは、沈黙という会話が、時に言葉による会話より雄弁にお互いの思いを語っていたからだろう。

ひょっとすると、私は今もそんな風に一緒に絶望してくれる仲間を探しているのかもしれない。その絶望を共に乗り越えて、残りの人生を希望を持って生きていくために。